この写真は、スリランカ人の知人で、著名な高僧です。
信者さんの家族が総出で彼を出迎え、それぞれが彼の足の甲に自分の額を付けてあいさつをします。
日本で『接足作礼(せっそくさらい)』と呼ばれます。
これは「仏の足をいただくかのように(実際には戴くことはできないので)」と説明がなされたりします。
生身の釈尊が入滅した後の世界では、触りようがないので、「これに倣って」という変化をしたのだろうと思います。
この習慣は、釈尊の存命時から伝わっています。
日本に流れてきた仏教は大乗仏教といって、個人の修行を中心にしたものではなく、社会の中での関係性を重視するものです。
東南アジアに伝わるのは釈尊の時代の習慣をも色濃く残すもので、上座部仏教と呼ばれます。
足の甲に頭をこすりつける動作もつまり、往年の人々は釈尊の足の甲に自分の額をこすりつけていたことを意味します。
【足の裏はこげ茶色。外向きに開くと疲労のエネルギーが噴出する】
足の裏には色でいうとこげ茶色のチャクラがあり、これが身体の外向きに開くと疲労のエネルギーが噴き出てきます。身体の内側に向けて開くと、足裏で触れたものが持っている要素を吸い取ります。生きている人間同士の触れ合い・コミュニケーションは例外なく、たがいに疲労を蓄積していますので、吸い取るもののほとんどは相手の疲労です。
チャクラはすべての人に基本的なメカニズムとして備わっています。釈尊は生身の人間ですから、例外はありません。
この事実をもとに、私は足裏の秘密、脳の秘密を解明していく途中で、足の甲に額をこすりつける習慣を不思議に思っていました。
「釈尊だけ、疲労を出さなかったのだろうか?」とも思いましたが、これは間違いでした。
釈尊は肉体が疲れたら休みます。ただし精神は疲れないので、体を横たえたまま教えを請う人々にお話をしています。これは寝釈迦という姿になって、上座部仏教の文化圏ではスタンダードな仏像になっています。
日本では横たわった釈尊は、涅槃像として、死の直後を表していることが多いです。
寝釈迦の精神は元気なので、両目を見開いて目の前の悩み多き人をしっかりと見ています。
こういう違いがあります。
というわけで、釈尊も肉体は疲れます。
むしろ、足裏から疲労を積極的に出してもらわないと困るわけです。
もし釈尊が悟りを開いても、そこから3年後に亡くなっていたら、果たして今の世に仏教は伝わっていたのか。という問題が生まれます。積極的に足裏から疲労を出して、元気でいてもらわないと困るわけです。
人間を含めすべての生き物は地球から生まれています。
そして生き物の死後、基本的にすべてのものは地球に帰ります。
例外として古代の生物が化石になって残っていますが、化石もまた砕かれて石になれば地球の砂となります。
私たちの身体はどんな生き方をしても、最後にはすべて余すところなく地球に帰ります。
吐く息も帰ります。尿も便も帰ります。
足裏から出る疲労も、もれなく帰ります。
【疲労とは、地球と肉体をつなぐもの】
例えば、エステ、理美容室、病院、リハビリ、老健施設など、すべての「他者をケアするための施設」は、営業が終わる頃には、部屋の床の真ん中に『黒いタオルで包んだ、間引いた雑草や、生野菜の切りくず』を置いてください。そして朝、その切りくずを捨ててください。
これが最も手間がかからない、空間に残った疲労のエネルギーを除去する方法です。
サロンでは、セージや線香を焚くことがあると思います。
あるいは、祝詞を上げたり、お経を詠むこともあるとあると思います。
エネルギーに敏感な方は、それで意図した清らかさを得るときもあれば、無理なときもあることをご存知だと思います。
【足裏から噴出す疲労のエネルギーは呼吸を難しくする】
セラピストで疲労のエネルギーを理解したい方は、こんな実験をしてみてください。
まず、血縁関係がなく、恋愛感情も持っていない他者に、いすに座ってもらいます。
もうひとつのいすを用意して、足を乗せてもらいます。
床に足を投げ出して座っている姿勢を、いすを2つ使ってやってもらうということです。
セラピストがその足裏と自分の心臓がほぼ同じ高さで一直線に結ばれるように位置を決めます。
これで、相手の足裏、土踏まずとかかとの間に、こげ茶色のフェルトを貼ります。
そうすると、相手が疲れていると、高温の熱が噴出します。
かなりの勢いで吹き出てくるのですが、この熱が自分の心臓に当たるように位置してみます。
そうすると、呼吸することさえ困難になるのが分かると思います。
これは疲労のエネルギーです。
自分の身体がそれを受け取ることを拒否するのです。
ちなみにこの噴出し方は直線で出てくるので、施術中も、クライアントの足裏とセラピストが直線で結ばれないように立つ位置を考えてください。
「相手の疲労をもらってツライ。疲れた」という方は、ぜひ立ち位置を調整してください。
夏に海水浴をしているときに、浜から急速に沖へ向かう潮流に巻き込まれてしまう事故の話があります。その離岸流のメインストリームは直線ですが、その直線の両端に巻き込む渦も生まれます。
足裏から吹き出る疲労のエネルギーも直線の周囲に渦巻きが出ているのですが、これはかなり小さいです。ところが繊細な方の中には、この小さな渦さえも感じ取ってしまう人もいます。
疲労のエネルギーを「もらわない」ために、自分の鼻のチャクラを動かしておくこともできます。
これは後日、後述します。
【地球と身体をつなぐために、野菜の切りくずや雑草の細胞の助けを借りる】
さて、クライアントへのケアが終わり、クライアントが出た後に、部屋の床に横たわってみてください。
自分が立ったりいすに座っていたときよりも部屋の空気が重たく、息苦しさが増すのが分かると思います。疲労のエネルギーは重たく、下から積み重なるように床の上にたまります。そしてかなり長時間滞留します。
たまりやすさは消えにくさと連動していて、これには建物も関係します。
鉄筋コンクリートのマンションなどは比較的たまりやすく、木造家屋は消えやすいです。木造家屋も、古い家ほど消えやすいです。
線香などの通常の浄化方法で室内が思ったほどクリアにならないときは、この床上にたまったものが邪魔をしているわけです。
ここで、先ほどの野菜くずが大活躍するわけです。
これには植物の特性を応用しています。
それは植物に備わっている「夜は疲労のエネルギーを吸い込み、日中ははじき返す」という特性です。
正確には、太陽の光を浴びている時の植物は疲労のエネルギーをはじき返すのですが、陽が沈み光が消えると吸い込みます。
黒いタオルで野菜くずを包むと中を強制的に夜にできます。
そして、植物の反応を夜仕様に変えることができます。
ですから、使うものは生野菜や生の雑草です。熱を通したものはだめです。
また、黒いビニールはだめです。タオルのように、光は遮断するけれど空気は通すものが必要です。
途中で光が漏れると、中の植物にとっては夜が明けたことを意味するので、吸い取ったものを吐き出します。ですから、しっかりと包んで光を遮断しておきます。
【地球と身体の接点を失っているから】
なぜ、植物の力を借りているかと言うと、現代人は地球との接点をひとつ、失っているからです。
人は裸で生まれてきます。
裸なのですが、靴を履くことを前提にしておらず、相変わらず裸足で駆けるための足を持ってきます。でも現実にこの社会では裸足で外を歩くのは困難です。
残念なことに、地面が硬くて痛いとか、暑いとか寒いとかいろんな要素で、裸足で生活できる状態ではないのです。
地面の問題としては、アスファルトで覆われ、私たちの足は靴で守られています。
このことで地球との接続ができていません。
たまに砂浜や清らかな山の中で裸足で歩くと気分爽快になっていきますが、大昔ならばいつもその爽快さがあったということです。
足裏のチャクラは外に向かって開き、地球にダイレクトに疲労のエネルギーを「お返し」して、それが次のいのちをはぐくむ原材料になって…という循環です。
いのちある存在から出てきたものはモレなく地球にとって必要なものですから、返さなければなりません。
自分主体だけの目線では理解しにくいことですが、疲労のエネルギーも地球にとって必要なものです。
ダイレクトには接続できない状態でも、植物を介すると可能になります。
「すべては縁なのだ」という釈尊の答えは、人と地球の関係においてもまったくそのとおりに適用されています。
ここで、前述のロジャー・ベーコンの出番です。
「試してごらん。本当のことが分かるから」です。
どうぞ疲れがたまっているサロンの関係者は一度やってみてください。
【生活の中に垣間見える足裏のチャクラの影響】
足裏のチャクラの実験では、血縁関係もなく恋愛感情もない他者で試していただきたいのですがそれには理由があります。
「人は習慣に左右されている」という側面があり、血縁者や恋人の場合、脳で受け取る感覚と身体が受け取る感覚にずれがある場合もあります。
ある老夫婦の場合ですが、奥様が全身にがんが転移。ご主人はがんではないけれども体中が痛い、疲れきっている。という身体です。
それで、それぞれに足裏のチャクラを外向けに開き、疲労のエネルギーを噴出させたところ、数人いたセラピストは全員、部屋から出たくなり、しばらく我慢をしていましたが耐えきれず、部屋を飛び出しました。ところが夫婦は口をそろえて、お互いの疲労のエネルギーが噴出している空間の方が「居心地がよい」と答えました。
いつもその環境で暮らしておられることがよくわかる瞬間でした。美しさと悲しさが入り乱れて感情が波打つ体験でした。
【すべては縁である】
さて、釈尊です。
釈尊は、「この世はすべて、縁である」と言いました。吐く息が、この肉体が地球に帰るのは必然であり、疲労もまた帰るべき(返さなければいけない)ものです。
ですから、釈尊の足裏からも、大いに疲労が出ていいわけです。
むしろ、積極的に出して、いつまでも元気でいてもらわないと困ります。
だから実際の歴史でも、釈尊は死の直前まで歩き続けていました。
ということは、人々が釈尊の足の甲に額をこすりつけるのは、疲労が噴出していないからではなく、「こすりつけた方が良いに決まっている理由があるから、こすりつけた」のです。
こすりつけるという動作には、ここには現代で解説されるような、足に額を近づけることで相手の徳を讃嘆したという、道徳論や感情論とリンクしていく素地があることも否定できませんが、私は、この真理を道徳や感情で語ってはならないと思っています。
なぜかというと、真理とは問答無用で冷静で合理的なものだからです。
『相手にとっても、そうした方が良いことがあるから、そうしていた』『釈尊はその瞬間でさえも、人々に有益な何かを与えていた』のです。
これは、試せばすぐに誰にでも答えが分かる科学ですから、私にとってもまた分かってしまえばとても簡単な答えでした。
「足の甲と脳は、金色のエネルギーが流れる道でつながれている」のです。
釈尊の脳は完全に活性化され、光に満ちています。
足の甲と脳は、同じエネルギーでつながれているので、釈尊の足の甲も金色のエネルギーを発しています。
人は釈尊の足の甲に額をこすりつけると、自分の脳が活性化します。これは共振の働きそのもので、だからこそ釈尊はそれを肯定し、許したのでしょう。
これは簡単に実験、証明できます。
金色に輝く何かを、アクセサリーでもいいし、金の折り紙でもいいです。
金色ならばお菓子を包んでいるフィルムでもいいです。
なんでもいいです。とにかく、金色に輝いているものです。
まずそれを用意します。
【健常者への実験】
実験手順1
立位になります。そして、両手を突き上げては下ろす動作を数回繰り返します。腕の重さや可動域をチェックします。
実験手順2
左右の足の甲に用意した金のアクセサリーを乗せ、同じ動作をします。
実験手順3
金色を乗せると手が素早く、軽く動くことが分かると思います。
総括
脳にエネルギーが流れ込むことによって、身体の動きはかなり楽になります。
【介助が必要な人への実験】
実験手順1
モデルが仰臥位(ぎょうがい)になります。
実験手順2
モデルの足首あたりを持って、その足を上へ、下へ、あるいはひざを曲げたり伸ばしたり、股関節を回したり、ということをします。足の動かしやすさをチェックしておきます。
実験手順3
モデルの足の甲に金色を貼ります。
実験手順4
手順2を繰り返します。
実験手順5
モデルは、意識してその動作に対して「協力する」パターンと、「無視する」パターンを試します。
総括
「協力する」「無視する」ともに、足は軽く、楽に動きます。
リハビリなどの現場では、圧倒的にクライアントの足の甲に金色の何かを貼ったほうが楽です。身体機能が低下した相手の機能を回復させるのに、相手の脳を使ったほうが親切ではないかと思えます。制度の問題でできる・できないはあるのでしょうが。
【何もしないと、脳は出力を下げ続ける】
この実験は、金色を使うと脳はいともたやすく元気になるのだいうことがよくわかる実験です。
脳は休む習性があるので、実は、身体を動かすのが困難になるその手前まで、出力を下げています。これが日常です。
普通乗用車を快適に動かすには普通乗車用のエンジンがいるのですが、脳がさぼっているので、軽自動車の出力になっています。止まると主人(魂)に、サボっていることがばれるので、ばれないようにぎりぎりまで下げるというこれまた賢い手段を講じています。
足の甲に金色をおいて身体の動作の変化を確かめるという実験は、脳は脳のために生きている。主人(魂)のために動いているのではない、ということが明らかになってしまうことでもあります。
これを実験されるときには、自分(主人=あなた自身)をある意味、煙に巻いていたあなたの脳に対して、今後どのように付き合うべきか。まで考える必要があります。
またその後の継続した研究で「金色のエネルギーが通る道で、脳とつながれている場所」はほかにもいくつか存在することが分かっていますので、また別稿にします。
【脳の活性化の初期に起こること】
脳が活性化すると格別な心地よさがあります。
何か仕事をする時に活性化させるとやみつきになります。
このワークの初期に顕著な出来事が2つありますので、ご注意ください。
出来事その1
最初期は10分くらいでエネルギーが枯渇します。
解決方法=甘いお菓子を食べてください。
解説=脳が一気に動きます。そのときに最初は過剰に動きます。鏡を見たり、同席者に表情を見てもらいながら試すことを推奨しますが、最初は表情も光輝かんばかりのフレッシュさを見せます。
ところが10分くらいで表情が曇ります。その身体にとって前例がない働きなので、過剰にエネルギーを使い、それが枯渇することでなります。
解決は簡単で、@足の甲の金色を外す。A甘いお菓子を食べる。です。
甘いお菓子を食べると、最初に金色をつけた時よりもより強く輝く表情になります。
これは初期の特徴です。数回、つけたりはずしたりを繰り返していると慣れてきて、最終的にはこまめに甘いお菓子を食べなくてもずっと高いレベルで脳を動かすことができるようになります。
出来事その2
「記憶のコップ」からネガティブな感情があふれます。
解決方法=つけたりはずしたりを繰り返すと消えてしまいます。
解説=脳に金色のエネルギーが流れ込むと心地よいのですが、はずした時に「記憶のコップ」に溜まっていたネガティブな感情があふれてきます。これは何が溜まっているのか本人にも分からない秘密の小さなコップです。「腹が立つ」とか「泣けてくる」とか、様々な反応が起きます。
前後のドラマが存在せず、そのピンポイントの感情だけが残っているので本人が一番驚きます。
このコップは小さいので総量はたかが知れていて、金色をつけたりはずしたりしていると数回で洗い流されて消えてしまいます。ドラマがないのでその感情の裏を探り納得することは無理ですから、つけたりはずしたりを繰り返すことで早めに洗い流してください。
ごく稀に、ネガティブな感情が残されていない人もいます。ただそれは本当に稀なことです。
【脳は温度や回転数で生み出すものを変える】
脳は、ある一定の温度、もしくは回転数というものより上になると幸せしか考えず、そのラインを下回るとネガティブなことしか考えない、という性質があります。
普段人はだれかを見て、明るい人、ネガティブな人、という評価をしていく傾向があると思いますが、その評価は、脳の温度・回転数を上下させると一変します。固定された性質ではないということです。
眠る時には、脳に金色のエネルギーを送る必要はないですが、起きている時間は金色のエネルギーを活用することを習慣づけてほしいと思います。
周りから見て自分が「明るい人」「幸せそうに見える人」だったら、周囲の人もそのような話題や仕事を共有しようと思います。
周りから見て「ネガティブな人」だったら、同じ結果になるかというと、それはたぶん難しいだろうと思います。
わざわざ、チャクラの勉強をするという人は、何らかの意思を持っていると思います。
それはいのちの不思議さに感銘を受けてかもしれませんし、誰かを助けたいという願いの発露かもしれません。ともかくも、自分をよりよくする、社会をよりよくする、という願いをもった人がチャクラのことを勉強していくのだと、私は思います。そういう思いを持つ人のために、本稿を書いています。
そうした愛の発露以外のことでしたら、残念ですが本稿から得るものは何もないと思います。長文を読む時間がもったいないと思います。
ですから、自発的にチャクラの勉強をされていて本稿にたどり着いた人は、もうすでに長い探究の旅を続けておられることと思います。
そんな自発的な目的意識を持つ人はぜひ、努めて社会を照らす灯台になってください。
生まれつき太陽のように輝いている人もいれば、周りに照らされて花のように輝く人もいます。
明るさとネガティブの両方に気づいた人は両方のことが分かっているので、きっとより丁寧に人を照らすことができると思います。そんな気づきを得た人にしか見えない世界があって、その世界に生きるいのちは、そうやって気づいた人が照らしてくれる瞬間を待っています。
【原子とは、宇宙が用意したもの】 |