手仕事の意味
当会のマルマトリートメントを行うためには、必ずセラピスト諸氏の手による仕事が必要になります。
その手仕事は「このセラピストさんに出会えて良かった」「このクライアントさんに出会えて良かった」という思いを生み出します。
クライアントの喜びとセラピストの喜びが重なり合うために必要な手技と概念が、当会が提案するトリートメントです。
そしてその手でなしたことは、「相手の身体が本来持っている調子」に整える行為に過ぎません。
相手が本来持っていない機能をつけ足すようなことはありません。
いかにトリートメントが優れていようと、クライアントに羽が生えて飛んでいくわけではありませんから。
相手の身体を良い調子に持っていくこと自体は、施術をする側・受ける側の共同作業でしかありません。
この共同作業を、施術者は手を使い、クライアントは自己の身体とリラックスした心を使って行います。
つまりどこまでいっても、トリートメントの成果は両者の共同作業によります。
その成果はセラピストとクライアントの二者の間にのみ存在し、クライアントの存在に同化していくものです。
これはそもそもクライアント自身にしか受け取ることができないギフトであり、何人たりとも奪うことができないものです。
すべては《縁》だから
日本社会では物事を見るときに、「因果応報」だとして、結果に対応する原因を探し、断定する傾向が強くあります。
身体でいえば、今ある状態を結果だととらえて、原因を追求することに奔走します。
それは社会の様々なものごとにも当てはまり、往々にして生きづらい社会を皆で作ってしまっていることにもつながっています。
ですが私は、本当のいのちの姿は「因・縁・果」であることを知っています。
縁によって結果はどんなふうにも変わっていきます。
今は、結果であると同時に、一瞬先の未来につながる因でもあります。
私たちの存在は今という瞬間の中に実在として生きているがゆえに、『縁』以外のものではありえないと言えます。
これは仏教の基本的な考え方ですが、私がこの手技を体系づけていく時に常に思っていたことそのものです。
このトリートメントは、縁によっていのちを見、感じ取っていく行為なのです。
人の手が生みだす宝物
マルマトリートメントは『縁』そのものであるがゆえに、人の世がある限り、後世にながく続くものなのだと断言できるのです。
人がこの世にあり続ける限り、このトリートメントは、人を癒し、生きる勇気を与え続けることができます。
このトリートメントは人の手が生み出す宝であり続けるのです。 |